人類と火
人類が火を扱うようになってから今に至るまで数え切れないほどの火災が発生してきたはずです。
火は有効に使えばたくさんの恩恵をもたらしてくれます。しかし扱いを間違えば命さえも奪う恐ろしいものでもあります。
古代では電気はありませんので火が灯りの代わりでしたし、寒さを凌ぐのも火を用いていました。ですのでいまよりも非常に火と密接な生活を送っていたことが想像できますね。
火と密接ということは、それだけ火災になる確率が高いとも言えます。
古代の火災
ローマ大火
古代の火災といえばローマ大火が有名ですね。
西暦64年 皇帝ネロの時代に起こったこの火災はローマ市14区のうち10区を焼き完全に鎮火されるまで6日7晩かかったそうです。
商店通りから発生した火は、折からの風に煽られて大火になりました。
最近では2016年に糸魚川市で強風が吹く中で火災が発生して大火となりましたが、火災が発生した時に強風が吹き荒れていると大火になることがよくわかります。
アレクサンドリア図書館
アレクサンドリア図書館には膨大な蔵書があったとされますが、火災や略奪でそのほとんどが失われてしまいました。
このアレクサンドリア図書館が本当に存在したのかどうかは議論されてますが、本好きな私的にはとても大きな図書館がどれぐらいのものだったのかとても興味があるので、ここに挙げさせてもらいました。
日本の大火
日本の建物は昔から木造で火にとても弱く、特に江戸時代の江戸は世界的な大都市で燃えやすい家が集中していたため、大火がたびたび発生していました。
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉すら生まれたぐらい火災が多発していたのでしょうね。
中でも以下の3つを江戸三大大火と呼びます。
- 明暦の大火(1657年)
- 明和の大火(1772年)
- 文化の大火(1806年)
明暦の大火
明暦の大火は、明暦3年1月18日から1月20日(西暦1657年3月2日から3月4日まで)までに江戸の大半を焼いた大火事で俗に振袖火事とか丸山火事とも呼ばれています。
この火災の時も空気が乾燥して強い風が吹いていたと言われています。
原因はあくまでも説なのですが、若い娘が亡くなった両親が供養のために娘の振袖をお寺で燃やしたら、その振袖が風に煽られてお寺に火がついて火災になったとか。
明和の大火
明和の大火の大火は、明和9年2月29日(西暦1772年4月1日)に現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近から出火しました。
出火した場所から目黒行人坂大火と呼ばれることもあります。
出火元は目黒の大円寺で、坊主による放火でした。
文化の大火
文化の大火は文化3年3月4日(西暦1806年4月22日)に現在の港区高輪二丁目で発生しました。
火元の地名をとって車町火事とか牛町火事と呼ばれることもあります。
原因ははっきりしていませんが、この時も江戸は強風が吹いていたみたいです。
江戸時代の火消し
江戸時代の大火を紹介しましたが、幕府は何も対策をしていないわけではありませんでした。
寛永6年(西暦1629年)には江戸城を守るため大名に火の番をさせ大名火消しが設けられました。
寛永16年(西暦1639年)に火消しの場所を定めた所々火消が、明暦の大火の翌年万治元年(1658年)には旗本を火消し役に命じ、さらに正徳2年(西暦1712年)には火消しの方面を定めた方角火消しが設けられた。
しかし、この幕府が設けた火消し制度は江戸城とか大名屋敷を火災から守るためのものです。
江戸の火消しと言われ思い浮かぶのはこのスタイルではないでしょうか?
法被姿に纏(まとい)を持った町火消ですね。
享保4年(西暦1719年)に八代将軍 吉宗が江戸南町奉行 大岡越前に命じて設けさせた「いろは48組」これが今の消防団の前身とも言われる組織です。
町火消の活動
半鐘がなって火事を知ると町火消たちは現場に駆けつけ消火活動をするのですが、彼らの消火方法は放水して消火する方法ではなく、現場周辺の家々を破壊して延焼を阻止する破壊消火が基本だったのです。
今も残る町火消の道具
町火消が破壊消火に使用していた鳶口(とびぐち)やカケヤは今でも消防車に積んでいて、トタンを剥がしたり残火処理で掘ったりするために使っています。
江戸時代に使っていた物が今でも現場で通用するのですから、当時は破壊のために様々な道具が考え出されては淘汰されていき今にいたるのでしょうね。
鳶口
かけや
まとめ
日本人が江戸時代から本格的に火災に立ち向かっていくようになったことがわかりましたね。
江戸時代では破壊消防が基本でしたが、近代へと進んでいくにつれて消防の装備や組織も徐々に確立されていきます。
江戸時代から続く火消し道具と最新の消火資機材を使用して、今も消防は人々を火災から守っているのですね。