多くの自治体に設置され、平成29年現在約85万人もの消防団員が全国で活動しています。
そんな消防団の歴史を紹介します。
消防団の歴史
江戸時代
消防団の歴史は古く、江戸時代に八代将軍吉宗が江戸南町奉行の大岡越前守に命じてもともと町組織としてあった火消組である店火消(たなびけし)を作り替え町火消「いろは四八組」を設置したことが始まりだといわれています。
各火消組に「いろは」のように名前をつけることで、火消組同士が自分たちの名誉にかけて消火を競い合うことで消防の発展につながりました。
町火消は町奉行の監督下にありましたが、純然な自治組織だったため、町火消に使う費用のすべてが町負担となっていました。ですが、その費用にほとんどは消火に使う器具などの購入や修理にあてられ、組員は無報酬で働いていたのです。
いろは四八組は江戸だけに組織されたものだったため、他の消防組織がない村落などは、古くから続く集落の5人組制度と今でいう青年団たちが駆け付けて消火活動をする駆け付け消防が主な消防活動でした。
5人組は、古くは律令時代に作られ脈々と日本の統治に利用されてきた制度です。連帯責任や相互扶助、相互監察などの役割があったそうです。
明治時代
明治に入ると江戸の町火消は東京府の管轄になり、東京府は明治3年に消防局を設置して町火消を消防組としました。
明治6年には消防事務が内務省に移され、東京府の消防は明治7年に新設された東京警視庁に移されました。東京警視庁ではすぐに消防組に関する章程を制定し、明治の消防組織の基礎となりました。
しかしこの消防組も東京が中心であり全国で見ると、公設の消防組は少なく、ほとんどの町が江戸から続く自治組織の私設消防で、消防としての機能も十分にはたせていませんでした。
そういった状況に明治政府は社会の発展に対応できるよう効率的な消防組織を作るため、地方制度再編成を良い機会として、明治27年に消防組規則(勅令第15号)を制定して、消防組を府県知事の管理下に置いて全国的な統一をめざしたのです。
具体的には、消防組は知事が職権をもって設置するものでした。
ですので、いままであった消防組や市町村が自分たちで設置していた消防組織のすべてを認めないというものでした。
消防組の権力は知事が握っているのに、費用に関してはすべて市町村が負担しなければならず、消防組規則が制定されても大正時代末になるまで消防組の設立はまったく進まなかったのです。
大正時代末になると、それまで警察署長などが積極的に消防組の設立を働きかけたことによって消防組の数は増大していきました。
昭和時代
昭和4、5年頃から軍部により民間防空団体として防護団が各地に結成されたのでした。昭和12年には防空法が制定だれ、国際情勢が悪くなっていくなかで、国防体制の整備が急がれるようになりました。
昭和13年に内務次官名で消防組、防護団の統一について両組織統一の要綱が決定され、昭和14年1月に勅令「警防団令」を交付することとなり、明治から続く消防組は解消されて、警防団とした組織が昭和14年4月1日に全国一斉に発足し、終戦まで警防団は警察の補助機関として消火と防空監視や空襲爆撃下の救護活動の任務にもあたったのです。
戦後、米国調査団の勧告によって明治以来つづいてきた消防と警察が分離されました。
総司令部からの指示により内務省は昭和22年4月30日に消防団令を公布して警防団は解消させ、新たに全国の市町村に消防団が組織されることになったのです。
総司令部は、消防組織についても自治体消防は市町村の管理にするよう指示して、内務省が指示にもとづいた消防組織法を昭和22年12月23日に交付したのです。
この消防組織法により、消防は完全に警察から分離独立して管理も市町村の責務になりました。
昭和23年3月24日には新たな消防団令が公布されて、義務設置だった消防団が任意設置となって、消防団の指揮監督権は警察部長か警察署長であったのを市町村長、消防長、消防署長に移されることになりました。
府県知事に与えられていた市町村条例の認可権や消防団事務の監察権が廃止されることにもなりました。
消防団令については、消防組織法第15条の2に消防団の追加にともない廃止されたのです。
※現在の第15条の2とは違います。
まとめ
消防団はかつて江戸のまちを守るために作られた「いろは四八組」が基礎となり、名前や組織が変わりながらも今にいたっているのです。